2014年10月17日金曜日

工場の動画

友人の髭さんが工場にて動画を撮ってくれました。
http://vimeo.com/109007583

先日紹介したNEWフレームを作っているところです。

2014年10月16日木曜日

NEWフレーム テスト2本目

最近と言っても一本目は半年以上前に作ったのだが細々とブラッシュアップして
二本目を今回作ってみた吉と出るか凶と出るかはライダーにみていただこう。


2014年9月8日月曜日

フレーム製作について

まずはザグリから始まる。
冶具にセットして仮止め。
バックを仮止め。
ヘッドの本付け。
シート集合部の溶接。
画像がちょっと違うけど矯正作業。
各部の切削。
そして塗装屋さんに持ち込み。
ざっとこんな感じです。

2014年8月11日月曜日

少し若い時の旅について話そう。19

オートバイの旅は天候に左右されると思うが運良く27年前の旅では あまり悪い天気では
なかった。 実を言うと日記は前回の日にちで切れている
たぶん急ぐあまり書くのもめんどくさくなってしまったのだと思う。
どうも詰めが甘いのは昔も今も変わらない。

1987/6/26 18日目
尾道を出て走りに走り神戸に向かった途中の景色などは、すっかり忘れている尾道から
神戸と言えば途中には岡山や姫路など見るところは結構あるのだが この時点から6年前に
車で姫路城に来ていたので見なかった。

神戸ではユースではなく船員会館と言うところで素泊まりをした。思い出すと夕食を何処で
取ろうかと思い町に出て小さな居酒屋に入りカウンターで飲んだのを思い出す カウンター越しに
大将とやり取りして関西は阪神タイガースの話題を振っておけば間違いないと思い その話で
盛り上がったような思い出がある。

宿に戻って家に電話をすると用事が出来ていたので明日は高速を使って帰る旨をお袋に
告げた。

1987/6/27 19日目
船員会館を出てすぐ高速に乗り関東まで名神から東名に入り帰り道を急いだ。
高速ではトラブルも無かったがWでの高速は思いのほか振動で疲れる。
サービスエリアにたんびたんびに寄って休みながら走ったWで高速は あまり楽しくない。
その後 家に着いて旅が終わった。


最後の3日間は一気に帰ってきたように思う さすがに19日間も家に居ないと ダメ感と
仕事をしないといけないと言う思いが脇目を振らせなかったように思う。
(仕事をしない罪悪感もあった やっぱり気が小さいやつである。)
それと瀬戸内海沿いは交通量も多く走っていても排気ガスが多く日本海側を走って来た
身には なんだかつまらなく感じてしまったように思う。

しかし九州の旅は本当に心に残る旅だった 人に説明しても年寄りの昔話になるだけだが
本人の生活の糧になっている事は確かだ もし貴方も時間が有ったら少し無理して
遠くに時間をかけて出かけるのも良い事だと思う。
きっと人生にほんの少しのスパイスになる事は保証する。

私自身は独身の時に結構長旅を謳歌していた2014年から33年前は半年も旅に費やした
事もある それはまた書く気になったら書いて見たいと思うが思い出で良いかもしれない。
もしその頃の事を聞きたかったら どうか飲みにでも誘って欲しい おじさんの昔話は
しつこいよ。

W3での旅物語は終了します。

2014年8月7日木曜日

少し若い時の旅について話そう。18


オートバイや自転車で走るなら断然 日本海側を走りたい。
ただ坂などが多く自転車だと辟易するかも。

1987/6/25 17日目
下関のユースを出発するとひたすら走り帰路にいそしんだ。
途中山道に看板が見えた そう錦帯橋の全然知らなかったが看板が見えると寄っていこうと
道を折れると錦帯橋が見えたWを止めてしばらく見ていた木で作ってあるが昔の職人さんは
凄いと思った。今ならさしずめ強度計算やCADで出来るところを経験でやってのける・・・。
(今でも詰めは職人の腕に掛かっているが当時の方が凄い。)

途中「宮島」に渡る港で一休みしたが港から宮島を見たが渡らなかった。

宮島を後にして今度は広島に市内に入ると「原爆ドーム」ま近に見ると圧巻だった。

ひたすら走る・・・。
Wの調子は良いのだが道に車が多くなり走っていてもなんだか走っている実感が無かった。

今日の宿は「尾道」ユースの名前は「尾道友愛山荘」と言うところで山の上にあった。
ユースに入ると尾道と言う事で映画の解説や張り紙が壁に狭しと飾ってあった。

着いてしばらくして歩いて海まで狭い坂道を降りていった 時々テレビで写っているように
人の家の軒先ほどの狭い道・・・尾道に来たんだと感慨に浸る。
なんだかここを歩いていると初めて来たのに日常を感じてしまった。

映画の一場面を遠くに見たような気がした。

続く



2014年8月6日水曜日

少し若い時の旅について話そう。17

オートバイで雨の中を走るのは好きではないが長旅をしているとどうしても過ごさないといけない
私はあまり良い合羽を持っていなかったので結構苦労したが運転が下手な分スピードを出さない
事もありそれなりに過ごしていた。Wの重量にも多少助けられていたのかもしれない意外と
滑らず雨でもそれなりに快適だった。ただオーバーブーツは良い物をお勧めする。

1987/6/24 16日目
別府のユースを出発して国東半島の根元にある「熊野磨崖仏」を見る。確かここで一人旅方に
会う。その方はモトクロッサータイプのバイクで来ていた。今までの事などを多少聞いてみた。
熊野磨崖仏を出発して関門トンネルに向かった。

トンネル内は一度経験しているがやはり緊張する。

それほどの距離は走っていないのだが今日は「下関火の山 ユースホステル」に泊まることにした
ここは山の上にあり関門橋が良く見える良い景色で早く着いた事もあったので 
たしか関門トンネル には人道もあるのを知っていたのでせっかっくなので歩いて関門トンネルに
行き人道を通って九州側に行ってみた人道に行くにはエレベーターで降りるのだが降りて
向こう側を見通すが見えない・・・トンネルが湾曲していて向こう側は見えないほど中ほどが
低くなっていた。別段スリルとかも無いのだがなんだか海底を歩いているのが不思議だった。

もし行くような事があったら歩いて行く事をお勧めする 確か無料だったが今はどうなのかな?

このユースは本当に景色が良かったストリートビューで見ても良い所に建っている。

だんだん旅も残り少なくなってきてテンションが下がってきているようで日記も文字が少なく
なっている。

続く

2014年8月5日火曜日

少し若い時の旅について話そう。16

写真はアルバムの中からだが どこかわからない参考に・・・。

当時(1987年)
旅に出るとカメラで皆さん撮ると思うが最近は携帯で撮ってしまうので取り立ててカメラを持って
いく事はないと思う当時は携帯など無く有ったかも知れないが巨大で当然カメラなど付いている
物ではなかった 営業関係の友達が持っていたが今ならさしずめ恥ずかしくて使えない大きさだ。

当時と言うかほんの少し前まではフィルムカメラしか無かった この旅の写真ももちろんフィルム
なのでデジタルに変えるには携帯で写真を撮ってしまう方が手っ取り早い当時使っていたカメラは
「写るんです」にフィルムが自動送りになっているような簡単な物だった。走りながら撮ってみようと
腰に付けていたが危険で一回撮ったらやめてしまったがしまうのが面倒なので腰につけていた。

1987/6/23  15日目
別府のユース(調べたら私の泊まったユースは無くなっていて小さな民家のようなユースになっていた。)をでて本州に渡ろうとしたのだがユースのヘルパーと気が合いもう一泊する事になりWで
どこか走ろうと思い「国東半島」を回ることにした 確か良い天気で海岸線は気持ちよかった。
国東半島と言うと確か南こうせつさんが住んでいるのが有名だがとりたてて行くつもりは無く
淡々と一周した 海岸でWを降りてしばらく海を見ていたり一日中海岸線を走りながら時間が
過ぎていった。いい景色の中をWで走るとやっぱり来て良かったと思うのである。 

バイクの開放感 を存分に味わってまた別府ユースに戻った。
別府は町を走ると白い蒸気でいっぱいで民家の風呂も温泉で良い 勤めて働いていた時に
同僚の女性が別府の方で東京に来たら真っ先に肌が荒れたと言っていたのを思い出した。

ヘルパーがどう言う方でどんな話で盛り上がったのかはすっかり忘れているが楽しかったのだと
思っている 出ないとこんなに良い思い出として残ってはいないだろう。

明日は本州に渡ろうと思っていた。

続く


2014年8月4日月曜日

少し若い時の旅について話そう。15

6月ごろでもバイクで走っていると長袖はつらい しかし肘を出しての半そでも怖い 
そこで長袖を腕まくりしてバイクに乗っていると日差しで腕が焼ける・・・Wの場合と言うか
バイクの場合はどうしても手袋もしないと振動でいつもバイブレーターを握っているように
なってしまう そんなわけで、この旅の私の腕はしっかり「どかた焼け」になってしまった。
観光地で歩いていると恥ずかしかった。

1987/6/22 14日目
家を出発して旅も二週間たってしまった。
昨日泊まった高千穂のユースで朝食をいただき出発の時には女将さんが手を振って
送ってくれた。 今日は山並ハイウエーを通って別府まで行こう・・・ユースをでて山道を走る
曲がりくねった本当に山道をWは快調に走る天気も上の写真のように上天気だった。

この日だったかガソリンを入れようと山道の途中のガソリンスタンドに寄り店員さんに
無鉛ハイオクをお願いすると無いとの事 有鉛ならあると言う・・・この頃のバイクは有鉛の
方がバルブに良いと聞いていたので お願いしたこの年代ではすでに有鉛は無いはずなのだが
山で使っている農機具は有鉛でないとエンジンがいかれてしまうので有鉛しか置いてないとの
事だった。

山並ハイウエーを走っていると寒くなって来た持っていたすべての 服を着ても寒いので
地図を広げて服の中に入れて風をしのいでいたがそれでも寒いので どこかに温泉でも
ないかと思いハイウエーを外れて下に下がっていくと・・・なんだか小さな小屋が何件か
建っている住宅の中ほどに有った、覗いてみるとこんこんとお湯が出ている小さな無料の
温泉で更衣室は湯船の脇の棚だけ上のほうに衣類を置かないとお湯で濡れてしまうほど
湯船に近い 近所の方に聞いてみようと家のチャイムを鳴らすが誰も居なかった。

しかし寒いので外にWを止めて湯船脇ですばやく服を脱いで湯船に入る・・・気持ち良い!
誰も居ないのだが湯船脇にはケロリンの桶があり近所の方が使っているのはわかった。
体が温まるまで入っていたが誰も来なかったし外に出ても誰も居なかった。
さすがに九州、温泉が多い。

別府のユースも温泉で今日は温泉三昧・・・ただユースに着いて一番に入ったら先ほど
入れ替えたばっかりなのかぬるかった・・・。

2014年8月1日金曜日

少し若い時の旅について話そう。14


Wでの旅にあたって、どのような靴を履いていこうか出発する前に少し悩んだワークブーツで
行くかロングブーツで行くか・・・結局ロングブーツにしたのだがバイクにまたがってばかりなら
ブーツで良いのだが歩きが有るとやっぱりワークブーツの方が良い両者の良いところは
あるのでやっぱり悩む。

1987/6/21 13日目

青島ユースを出発すると今日は良い天気だった。これからどのように回るか悩む・・・このまま
別府に行こうとしたが地図を見ると行きたかった高千穂が残っていた 九州の中ほどに また
戻って高千穂へ Wの快音を聞きながら一路向かう。
午後から天気が良くなく気温も下がって少し寒い。高千穂峡に着いてしばらく景色を見ていた
いつだったか絵葉書や本に載っている景色と同じで高千穂に来た事を実感する。

2011年に家内とツアーでも高千穂に寄った あの日と同じ場所で夫婦で同じ景色を見ていた
この旅については何度も家内に話しているので 少々辟易気味に家内は聞いていた。

当時は彼女と来れば最高だろうと日記には書いてあった。

本日の宿のユースホステルは高千穂神社の鳥居の前だった。
(ここも今現在ユースはやめているようだ。)

夕方に入り寝場所を教えてもらうと なんと神社の参道の中ほどに建っている一軒やで脇から
バイクで上り家の前に駐車して中に入るとひどい事に部屋の中は汚い・・・前泊者は掃除を
したのだろうか?今日は私一人なのでまずは掃除から始めた。

夕食は日が落ちて鳥居の前の土産物屋(ここがペアレントの家でもあった。)で頂く 田舎料理で
家庭的 凄くおいしかったのをおぼえている。
夕食後風呂をいただき 参道を登って帰るのだが・・・暗くて怖い・・・一人しか泊まっていないので
参道を登るのはちょと勇気が入用だった。

あの時ほど夜の神社の参道が怖かったことは無い特に宿に入っても一人なので本当に怖かった。

続く

2014年7月31日木曜日

少し若い時の旅について話そう。13

長く旅を続けていると衣類の問題がある 当時長旅だったが荷物は少なくしたかった
何回か前にバイクの写真にバックを載せている物があるがあの大きさで約2週間を過ごしている
足りないものは買えば良いのだがどうも旅先で調達ってしないものだ 唯一この旅では
京都近辺で寒いのを予想できてトレーナーを買っている、これが結構活躍した。

1987/6/20 12日目

旅館を出発すると昨日と打って変わって良い天気になった でも風は冷たかった。
前記のトレーナーを着込んで走る。
一路佐多岬を目指した 道についてはやはりもう記憶が無い日記にも佐多岬に着いた事
しか書いていないので問題も無く気持ちよく走ったのだろう。

古いバイクだが毎日乗っていると調子が良い前にも書いたが朝は一発でエンジンが掛かると
本当に気持ちが良かった。

佐多岬に着いて岸壁の歩道を歩いて行った、ここは岬は遊歩道を歩かないと岬には着かない
行ってみたが誰も居ない写真を取ってもらう人にも会えなかったので表札のみの写真だ。

ここから宮崎の青島を目指した、途中バイクの青年に会い一緒に一緒に分かれるところまで
走った かれは私とは反対方向で九州をまわっていたようだった。

宮崎に入り日南海岸の上の道路を走ったが断崖絶壁でそのまま海に飛んでしまいそうな
道だった 何処からか日産の旧型フェアレディー(オープンカー)が後ろについて走り去っていった
年代が似通っているので(車のほうが古いかな?)なんだかタイムスリップしたような錯覚を
覚えた思い出がある。

青島ユース(今は閉館している。)に着いてバイクを止めて荷物を部屋に置き散歩をした。
たしかこのユースの敷地にアメダスがあったような事を覚えている。

車が少ない道を一定速度でバイクを走らせ景色を見ると本当にバイクで着て良かった
と思った。

続く

2014年7月30日水曜日

少し若い時の旅について話そう。12

さすがに雨が降った日の写真が無いのでネットからお借りしました。


1987/6/19 11日目

鹿児島のユースを出発してフェリー乗り場までは、なんとか天気も持ったが いざフェリーに
乗ってしばらくすると雨が降ってきた。
乗っている間は良かったのだが桜島に付いてバイクを下ろす時は大変だった。
たぶんフェリー乗り場で合羽を着て出発したのだが気分は一気に降下していた。

桜島を走っているのだが景色は気持ちに残らずただ道を走っていたような思い出がある
途中土産物屋に寄って旅に出るまで勤めていた会社に気持ちを少しばかり送ったのも
おぼえている そこで今日は旅館に泊まってしまおうと思い教えていただいた。

垂水温泉 フェリー乗り場から多少走ったがそれほどの距離でもない。

今日泊まりたい旨を旅館に言うと温泉の脱衣所なら温泉の料金だけで寝てもいいとの事
ここらへんに来るバイク乗りは良く利用するらしいが私は一応旅館に泊まりたい事を
告げお願いした。

たしか時間もあったので旅館の近くを歩いてみたのだが雨のためにほとんど記憶が無い。

やはり温泉は良かった早く入ったので温泉三昧 3回ほど浸かって本日は早めに就寝した。

この日は本当に何も無かったが梅雨の洗礼を感じた日だった。


 続く

2014年7月29日火曜日

少し若い時の旅について話そう。11

長旅をする時にお金はどうしたかと言うと「ゆうちょ」に入れておいた。
当時はカードがあったか忘れたが日本国中何処に行っても郵便局はあるので便利だった。
今だったらコンビニが全国にありATMも設置されているので良いのだが当時はコンビニが
無かったように思う。  旅先で多額なお金を持っているのはちょっと心配ですからね。

1987/6/18 10日目

阿蘇ユースで一緒に泊まった方にスイス人の方が居た つい「バイクに乗って行く? 」と
言ってしまったがヘルメットが無い・・・丁重にお断りしなければならなかった、でも英語も
出来ない私どうやって誘ったかどうやって断ったかすっかり忘れてしまった。

彼も阿蘇の噴火口を見に行くとの事だったのでついつい誘ってしまったのだが本当に
申し訳なかった。でも火口にに着くと彼が居た・・・バスのほうが早かった。
上の写真は彼に撮ってもらったものだと思う。

阿蘇を出発して一路鹿児島に向かった。途中結構な距離があるのだが何処を通ったのか
すっかり忘れている 日記にも書いてないのでひたすら走ったのだと思う 。

鹿児島に着いて結構走ったのでWのオイル交換をしようと思い手ごろなバイク屋を探すと
通り沿いに古い作りのバイク屋があった店先にはWと同じような「サンパチ」などが置いてあり
ここならWのオイル交換も出来るだろうと入ってみた。 

案の定良く知っていて「お兄ちゃんエンジンがさめるまでお茶でも飲んでな!」と店先の
いすに案内された しばらく話していると「お兄ちゃん このバイク売ってかないか?」と言う
それは困るので断ると「飛行機で帰れば良いじゃないか。」との事凄いバイク屋に
入ってしまったものだと感じたが いざオイル交換になると手際は良かった。Wのオイル交換は
一手間居るのだドライサンプのタンクが右に付いていてドレンボルトを取るとミッションカバーに
完全にかかってしまう それをよけるのに紙で漏斗を作りうまく下に落ちるようにしないといけない
その事を何も言わずにやっていた このバイク屋さん知ってる・・・と思い自分の判断が間違って
いない事がわかった。 

交換をしてお金を払って また走り始めると鹿児島の街は火山灰で凄い道の端には砂のような
火山灰だらけで夏は洗濯物を干すのも大変なようだ。

今日の宿は「鹿児島婦人会館ユースホステル」
外国人のかたが多くその日も結構泊まっていたが どうも日本のユースに泊まるのは初めてな
方が多いようで布団の敷き方やシーツの敷き方などをペアレントから教えて欲しいと言われたが
自分の物を敷いて用事で離れたら外人が私の布団で寝ていた。
言葉がわからないのは、どうも困るが 外人もずーずーしい。

何とか自分の布団も確保して寝ることは出来たが・・・。
彼らは、そこから船で沖縄に行くらしかった。

続く

2014年7月28日月曜日

少し若い時の旅について話そう。10

写真は熊本城だこの隣に創建当時から残っている櫓があるのだが この時(1987年)は
知らずに入る事は無かった一昨々年 家内と行ったツアーで ある事を知って入ってみたが
天守閣よりも雰囲気があり家内と二人で感激しながら見ていた。

1987/6/17 9日目
長崎は良い町だったのでもう少し居たかったのだが先を急ぐ事にした。

以前書いたが京都をでて折れたバックミラーだが福岡に入った時にちょっと大きめな
カワサキの販売店がありもしかしたらここにあるのではないかと受付に入り聞いてみた
営業の方が出てきてWを見ながら考えている倉庫の方に入ってしばらくすると
「あったよー!これで良いかい?」とまったく同じものを持ってきてくれた・・・!
値段を聞いたが中古で在庫だからただでいいとの事・・・(助かります。)
ずーずーしく工具も借りて早速ミラーを取り付けるこれで左右がそろったので後ろも
ばっちり見えるようになり本当に助かった。 営業の方にお礼を言って出発しようとすると
「新しいバイクにも乗ってねー!」と見送られた。

熊本でお城に入ろうとしたが石垣が高い下のほうで清掃作業をしているおばちゃん達に
道を聞いて拝観した。内部は大阪城などと同じく鉄筋で作られていてちょっとがっかりだった。

その後は走りっぱなしで阿蘇ユースに着く、ここは公営ユースで大きかったが観光シーズンでは
ないため夕食は外でする事となったがペアレントの方(お年の方一人)が「一緒に行くかい。」
とお誘いが食堂からの迎えの車で一緒になった方と3人で食堂へ行き食べた。

食堂の方はペアレントの事(ユースでは管理人さんをペアレントと呼ぶ。)を先生と呼んでいたな 。

続く

2014年7月26日土曜日

少し若い時の旅について話そう。9

長旅をしていると洗濯が大変で当時なかなかコインランドリーが見つからなかった。
たまにあるのだが今のようにちょっと走るとすぐに見つかる状況ではなかったような記憶がある
ユースにある場合は全身身に着けている物は着いてすぐに洗う事にしていた。無い場合は
普通の石鹸で手洗い特にパンツは着いてすぐ洗っていた。(乾かないもんね。)
最初の日に雨で上着が濡れた時は翌日半乾きで着てしまい走って乾かすと言う荒業も使って
毎日を過ごしていた。

1987/6/16 8日目
前日から泊まっていた北九州ユースは私一人しか泊まっていなかった。広いユースで少し
さびしかった旨が書いてある、ただ食事がうまかったのが救いだったようだ。
確か一人で食堂ではなくリビングのようなところで食べたような記憶がある。時期はずれに
旅をしているので たびたびこういった状況になるさびしいのは旅の情報交換が出来ない。

今日の目的地は長崎にした距離があるように感じたが意外と近かったようで途中「大宰府 」
によって見る ただ大きな神社だと書いてあったので(日記に)あまり感慨が無かったようである。

私の備忘録として書いているので今(2014)の考えと当時(1987)の考えが交錯して自分でも
ある種 バックツーザフューチャー状態で面白い。

あの時は長崎に来てここまで来たんだと言う感慨にふけったようだ実際8日も走っているのだから
(途中連泊もあるが)遠くまで来ている今は一人では中々行くことは出来ない。

長崎に来たので大浦天主堂やグラバー邸を見る。それから25年後に家内とツアーで同じところを
行って来た あの時バイクを何処に止めたのかすっかり忘れていて道すらおぼえていなかった。

今日は長崎オランダ坂ユースに泊まる、あの坂道 学生が行きかうところにバイクを止めていた。
このユースは夕食が出ないと言うのでユースで合った方と町の居酒屋に行きお酒を飲んだ。
(当時ユースでは飲酒はいけない事になっていたのだがそれはそれで・・・。)
飲んで食べてユースに帰り風呂に入って寝ることにした。
(あまり飲んでしまうと追い出されてしまう・・・かな?)

最近調べたのだが「長崎オランダ坂ユースホステル」は跡形もなくなっていて思い出だけが
輝いている。

続く

2014年7月25日金曜日

少し若い時の旅について話そう。8

毎回写真を再度iPhoneで撮ってあげているので画像が汚いのは年代だと思ってください。
当時はデジカメなど無くフィルムで撮らないと残らなかった しかしそのおかげで思い出す事も
多々ある。

1987/6/15 7日目
萩のユースを出ると梅雨独特の空模様だったらしい しかし「W3」の調子はすこぶる良い。

朝は一発のキックで始動あの独特のサウンドを撒き散らす「ドケドケ」と言う表現で
乗った事のある方はわかる音だ当時は本当にこの音が良かった時々一時減速のチェーンの
音が「ひゅんひゅん 」と鳴るとっても心地よかった もしこの音を聞きたい方はユーチューブで
「彼のオートバイ彼女の島」を探して冒頭の部分を聞くとわかる ただあの場面は近所迷惑だが。

この日はあまり走らず途中「秋芳洞」によることにした。有料道路を通って洞窟の上の道路を
走ったカルスト台地と言うのかな岩が露出する景色を見ながら山道を走った。
有料道路の特権か景色も良く大変満足した旨が日記にも出ていた。

洞窟に着いて入ってみるが結構大きい観光シーズンをはずして来ているので人が少なく
一人で居ると寂しいくらいだった。前日この地域に雨が降ったらしく洞窟の中の水も勢いが
凄かった。内部を一周して土産物屋で昼食をとって絵葉書をその場で書いて送ることに。

少し休んで一路九州へ!
関門トンネルを通って九州上陸トンネルは長いと思ったが意外に短く感じあっけなかった事が
日記に書いてあるちょっと拍子抜けしたようだった。

今日の宿は北九州ユースホステル「ここからの景色は素晴らしく綺麗です。」

一週間が過ぎやっと九州に着いたと言ってもゆっくりと景色やWの感触をつかみながらの
ロングツーリング さてこれから・・・。

日記には、この時の心情などは書いていないが当人はいたってのんきだったと思う まだ
何とかなる感があり本当に楽しんでいたようだ。

続く

2014年7月24日木曜日

少し若い時の旅について話そう。7

ロングツーリングと言うか長い旅は何度か経験している車で一人姫路まで行ってみたり
一人でヨーロッパを電車で5ヶ国を一ヶ月間回ったり四国を周遊券を使って一周してみたり
北海道をぐるっと回ってみたり何度か二週間くらいの旅をしている。
機会があればいずれ紹介したいと思うが本当に単なる旅の記録なので(あっこれも同じか)。

そのほとんどが24歳の時で仕事をやめて時間が有り余った時だった。
若いうちは長旅も出来ればお勧めする視界が広くなる事うけあいだ。

「W3」九州の旅6日目 1987/6/14
この日は萩のユースホステルに泊まっていた、ストリートビューでそのユースを見てみたが
私が泊まった時と同じ建物だった階段の下にWをとめたなーなんて見ながら昔を思い出していた。

前日着いた時に自転車で日本を一周している方とユースで会い私も自転車好きだと言う事で
話が合い今日は一緒に市内観光をすることになった、萩は良いところだとはおぼえているのだが
何処に行ったのか一向に記憶に無い歩きなのでバイク用のブーツしか持って居なかったので
近くの履物屋さんで靴を買ったのはおぼえている。

当時まだコンビニとかなかったような記憶だ(間違ってたらごめんなさい。)山の中に入ると
忘れた頃に昔のコンビニ(よろず屋さん)がたまに有って農業用の丈夫な物が売っていた。

彼は他に行くところがあるとの事で夕方分かれて私はもう一泊 萩のユースに泊まることにした。

続く

2014年7月23日水曜日

少し若い時の旅について話そう。6

「W3」の燃費だがこの時は朝毎日10リットルを入れていたようにおぼえている。
私はかっとんで行くタイプではないので大体一日200キロを目安に次の宿泊地を決めていた。

1987/6/13 5日目ともなると結構遠くに来ている、松江ユースで知り合ったバイクで来ている
女性と一緒に朝出発した出雲大社が近いので一緒に行くことにした。
知らない方と(特に女性)出雲大社に行くのも微妙だがその時はそういう流れになってしまった。
日記によると日御崎まで一緒に行って出雲で別れたようだ、別に旅の途中のロマンスなど
ではなかった。

私はその後 萩を目指した日本海側の海沿いをひたすら走る。
途中の北浦街道は本当に良かった約60キロをキープしながら走る「W3」はこのスピードが
なんとも言えない本当にバイクで走っている醍醐味を味わえる当時その時期は海がべたなぎで
海だかなんだかわからない平面の水溜りのような海岸線を心地よく走った。
この時の瞬間は今でも忘れずに心に残っている。

バイクの音 走行音 波のかすかな音(Wの音に隠れている)Wに乗っている事をこの時程
至福に感じたことは無い。

日記にも「贅沢な時間だった。」と書いてあった。


2014年7月22日火曜日

少し若い時の旅について話そう。5

 写真を見るとやっぱり若いこの時は30歳やせてる。

この日の目的地は松江のユースにしてあさ電話をする。
平日なので何処に行っても泊まっている人は少ないおまけに当時の日本海側は
本当に車が居なかったオートバイで走るにはとっても快適な日々だった。

丹後半島には行かずに国道312号を一路日本海に向かって進むが山の中快適には
走っているが緑ばかり・・・。
写真が前後するが森林を抜けて突然開けると、そこには餘部鉄橋が見えた!
本当に突然に現れたようにおぼえている今はこの鉄橋は確かなくなって架け替えられている
ストリートビューで確認すると現代的なコンクリートの橋梁になっているが当時は本当に
圧巻だった。

しばらく178号を通って鳥取の砂丘へ。
上の写真がその一枚はじめにも書いたが、やっぱり若い髪もあったし体型も細い。

この服装は作業着にワッペンをべたべた自分で縫い付け走っている最中は常に
腕をまくっていた日差しが強いのも忘れて・・・。

松江ユースまでは260キロの道のりだった。

確かこの日だったか昼飯に街道沿いのラーメン屋に入って食べていると大将がオートバイで
来たのか聞いてきた「W3」で走ってると言うと仕事の手を止めて外に出てしげしげと懐かしそうに
見ていた「俺も昔このバイクに乗ってたんだ。」このバイクは人を呼ぶようだ。

続く

2014年7月19日土曜日

少し若い時の旅について話そう。4

前回に書いた日の目的地は京都で泊まった所は「宇多野ユースホステル」最近ストリートビュー
で見たが大変綺麗なユースホステルになっていた。私が泊まった27年前はもっと昔のユースの
感じが色濃く出ていたような思い出が有る。

二回目に書いたとき ユースのスタンプ帳の写真を出したが長く旅を続けているとスタンプ帳が
足りなくなるので補助帳をもらえる「宇多野ユースホステル」でもらった物には、なんと「W3」の
イラストが描かれた物だった。
これは当時ヘルパーをやっていた大学生達の一人が作ったそうで彼は非常に「W3」のファン
のようで私が乗って現れたとき表に出て迎えてくれたような思い出がある。
フロントに居たのだが事あるごとに熱く「W3」の事を語ってくれたような・・・。

 「宇多野ユースホステル」を出発する時またがって悦に入っていた彼の見送りを残して
3日目(1987/6/11)の出発をする。

このような旅をする時私は大体朝に次のユースホステルに電話をして今日泊まるところを
先に予約してしまう今日の目的地は「天橋立」結構近いがここにはこの時点で6年前にも
泊まっていた。 あの時は車で来たのだがもし機会があったらまた書くことにしよう。

途中に「元伊勢神宮」と言うところに寄って内宮や外宮を見て天岩戸も見た。

あーおことわりがもう一つなにぶん昔の事を思い出しているので話が前後するかもしれないし
細かいところまでは日記に残ってないので、その点適当に読んでください。

やはりこの日もオートバイの爆音を供に走りを楽しみながら目的地に向かった天橋立近辺は
舟屋が多いしかも道が狭い入り江は穏やかで気持ちが良く早めにユースに着く、このユースには
外のベランダにベンチがあったので疲れた体を横にしていた。

走ってばかりなので少し疲れた事をおぼえている。

続く

2014年7月18日金曜日

少し若い時の旅について話そう。3

私がこのオートバイを手に入れた経緯はお話したが、そのときもう製造されてから11年の時が
たっていた。あの頃は車検も一年しか取れなかった事を覚えている。

九州行き二日目のお話を。

朝 御前崎ユースを出る時やっぱり雨が降っていたようで(当時を思い出しながら)寒かった事が
日記に書いてある。 ここら辺は記憶が定かではない6月と言う事もあり南に行くのだから
暖かいだろうと長袖のものをあまり持っていかなかったようで寒かった旨が書いてあった。
今思うと本当に行き当たりばったりと言う感じで家を飛び出したようだ。
しばらく走っていると何とかはれて気持ちよく走っていたと思う(寒いのは変わりなかった。)
途中「琴滝」と言うところで休んだ最初に書いた時に載せた写真がそこである。

その道の途中事件(事故かな)発生・・・ 走行中なぜか左のバックミラーが左右に振れていた
走りながら手で持ってみるとあっけなく抜けた・・・?止まってバックミラーのネジ部分を良く見ると
金属疲労で折れていた!当時は意外と冷静に「右が残っているからいいや!」と思いそのまま
京都に向かっていた。おおらかなオートバイに乗ると気持ちもおおらかになるようである。

Wは振動が凄い!高速で100キロは快適ではない下道を60キロ一定走行で 非常に快適。

道は結構 山の中で途中に映画のロケ地になった所などがありたびたび止まりながら
走っていった。
ミラーが折れた以外には快適なオートバイの旅を堪能していた。

続く

2014年7月17日木曜日

少し若い時の旅について話そう。 2

旅のお話の前にオートバイの事だが当時私は小説にこっていた「片岡義男」後存知だろうか?
「彼のオートバイ彼女の島」だったり彼の小説にはオートバイが多く登場する 自分もすっかり
彼の小説にどっぷりと浸りその中から「W3」に興味を持ってしまった。
 「W3」はW系の最終型で当時はあまり流通していなく(今みたいにネットが無いので探せなかった。)Wがどうしても欲しかった私は「W3」を手に入れる前に「W1SA」を手に入れていた。
(これは後に譲ってしまった。) 「W1SA」は癖がありどうも自分にはなじめなかった。

当時は携帯電話も無く今の人達からすればどうやって連絡を取っていたのか
不思議かもしれない私も今から思うと時間の流れが今とちょっと違うと感じてしまう。

そうこうしているうちに知り合いのエディターの方から連絡があり「W3」の出物があるとのこと
一発返事で欲しい旨を伝えて近く取りに行く事にした。それが所有している「W3」なのだが
前の所有者が高田馬場のさる自転車屋さんのお兄さんだった。あまり乗らなかったようで
一目で気に入り譲ってもらう、 それが「W3」との出会いだった。

乗ってみるとトルクが強く運転が非常に楽だ、ただうるさいし(当時はかっこいいと思う音だったが。)重いのでしまうのも一苦労でセンターを立てるのが億劫だった程(でも「W1SA]よりも楽だった。)エンジンをかけるのもキックのみ非常に男気あふれるオートバイで(当時168センチ57キロ)自分には大きく感じたものだ。 脱線したがオートバイの入手経緯がわかったと思う。


続く

2014年7月16日水曜日

少し若い時の旅について話そう。

私も結構歳を取ってしまったので最近は自転車に10キロ程乗ると帰ってから階段を上ったり
降りたりするのがつらくなってしまう・・・情けない。

少し若い時のお話を。
今から27年ほど前24歳から始めた今の仕事を29歳で一旦やめて1年間ネクタイを締めて
行く仕事に就いていた、しかし悲しいかな?自営業経験者は宮使いは慣れず翌年に辞めてしまい
しばらくプーになっていた工場が残っているので早々に前に仕事をもらっていたところに連絡を
取っておいたが、そんなに早く仕事をいただけるはずも無い。
当時まだ独り者だったので「いっそのこと自由な時間を使ってしまえ。」と前の年に手に入れていた
バイク(カワサキW3)で 九州に行くことにした。
出発は1987年6月9日この日は梅雨に入ったが曇っていたような思い出がある、ただ風が強く
246の橋の上で大きなポリ袋が飛んできてバイクの排気管にべっとりついてしまいしばらく
臭かった246をひたすら走っていると箱根の山で雨が降ってきたしばらくそのまま走っていたが
本降りになり体はびしょびしょに風邪でも引くと後々困るので陸橋の下で濡れているのにも
かまわず、これ以上濡れないように合羽を着た。当日は何処にも寄らず(雨もあったので)前日
連絡しておいた御前崎ユースに速めに入った。
着いてすぐに着ていた服を乾かすが雨なので・・・そして排気管に着いた溶けたポリ袋の塊を
ナイフで剥ぎ取る作業をした思いのほか付いていてがっかりした思い出がある。
明日は晴れると良いなーなんて思っていた事もうっすら覚えているが梅雨に出てきてしまったので
しょうがないとも思っていた。

続く

2014年2月18日火曜日

NEWフレーム

 新しい年になって(と言ってももう2月半ば)初めてのフレーム製作。
本付け終了後のフレーム後に塗装屋さんに持って行く。

ブログも良いけど新たまって書くのがどうも・・・。
フレーム作った時にはフェイスブックやインスタグラムなどに載せているので
探してみてください。